1970年代に起きた連続企業爆破事件で容疑者事情聴取 桐島聡とは

2024年1月26日夕方、突然流れてきたニュース。今から約50年前の1975年4月、東京銀座のビルに手製爆丸を仕掛けて爆発させ、一部を破壊し爆発物取締罰則違反容疑にかけられている桐島聡(きりしまさとし)(70)の身柄を拘束したとのニュースが流れてきた。発見は神奈川県内の病院に入院しているが、自ら桐島聡と名乗っている模様。

人物像

広島県率尾道北高校卒業後、1972年4月に明治学院大学法学部に進学。明治学院大学在学中に黒川芳正、宇賀神寿一と出会い、東アジア反日武装戦線として参加。

連続企業爆破事件とは

発端となったのは1974年(昭和49年)8月30日の正午過ぎに当時の三菱重工業東京本社ビルに1本の電話がかかり、『道路に時限爆弾を仕掛けた』という連絡が入ったことから始まる。その数分後に実際に爆発が起こり、建物1階部分が大破した。また周辺のビルの窓ガラス、停車していた車や街路樹までも被害を受けた。犠牲者8名、負傷者300名以上。

続いて、1974年10月14日に、三井物産本社屋3階の電気通信室が爆破されました。死者は出なかったものの10名以上の負傷者が出る第三次となった。三菱の時と比べて火薬の量を減らし、予告電話から20分の時間を空けて、避難の余地を作っての犯行との事。

その後は、帝人中央研究所、大成建設本社ビル、鹿島建設の資材置き場が爆破され、翌年1975年には間組の本社と工場が同時に爆破されました。他にも、関西にあったオリエンタルメタル社、韓国産業経済研究所が同時に爆破され、合計11件もの犯行が行われた。

事件の犯人と動機は?

11件の連続企業爆破事件は、全て東アジア反日武装戦線が起こしました。東アジア反日武装戦線とは、1970年代に数々の爆破事件を起こした実行班の名前です。メンバーは20代の若者ばかりで、普段は会社員として働いている人たちでした。11件以外にも事件は起こしており、宗教施設などの爆発なども起こしている。

犯行の理由は?

東アジア反日武装戦線の極端な反日思想が動機とされ、ターゲットは海外へも事業を展開する大企業であり、そのような企業を一方的に帝国主義を支援していると決めつけて犯行が行われたとされる。

犯人の行方は?

連続企業爆破事件では、犯行声明が犯行グループより公開されています。その犯行声明から懸命な捜査の買いがあって犯行グループを発見しています。

1975年5月19日、主要メンバーの7名とその協力者1名が検挙されましたが、その中の一名(斉藤和)が取り調べ中に自殺。

主要メンバーを逮捕後、宇賀神寿一、桐島聡が全国指名手配されるも、逃亡。主要メンバーの裁判中、1975年8月に日本赤軍の起こしたクアラルンプール事件で超法規的措置で佐々木夫が釈放され、国外逃亡。

人物像の確認はWikipedia参照、事件はWeblio辞書参照

桐島聡 – Wikipedia
桐島聡とは – わかりやすく解説 Weblio辞書